茶、美、くらし

お茶と食事 余珀 店主。お茶、日本の美、理想のくらしを探求中

寡婦日記①

「ダンナの骨壺」というエッセイを読んだ。著者は女優高峰秀子。黒田辰秋氏に骨入れを注文したそうだ。これを執筆した当時、高峰さんは54歳。その後ご主人より6年早く86歳で亡くなったのだから羨ましい。私は今「ダンナの骨壺」をどうするか悩んでいる。

 

火葬の日、夫の骨を少し分けてもらった。大事な息子を亡くしたのにもかかわらず、義父母は嫁の私を最優先して好きな骨を選ばせてくれた。迷わず喉仏を希望した。長くきれいに伸びた首から鎖骨にかけたラインがお気に入りだったから。すっと通った鼻筋も好きだったが鼻の軟骨は燃えてしまった。白く清潔に乾いた夫は布に包まれ小さな木の箱に収まっている。

 

仮住まいの箱から何に入れてあげれば夫は喜ぶのか。漆器か陶器か磁器か。新しいものか骨董か。いっそのこと茶器に入れてあげてはどうか。美意識とこだわりの塊のようなあの人に聞く術はもうない。

 

万事がその調子だ。葬儀に誰を呼びたかったのか、遺影はあれで良かったのか、ぐちゃぐちゃな心で悩みながら想像して一つひとつ決めるしかない。若かろうが元気だろうが誰であろうと葬儀に呼ぶ人を今のうちに決めておいた方がいい。きちんとした服装で正面を向いて良い顔をした写真も年に一度は撮っておいた方が良いだろう。

 

病にかかってから死について考えるのはなかなか苦しい。戦国時代ではない今、命を取られるかもしれないというレベルの恐怖に人はふつう慣れていない。死の恐怖を前にどんな人間も脆く弱い。「恐れを手放す」とか「潜在意識を書き換える」とか「愛を送る」とか上っ面のポジティブさはあまり役に立たない。

 

心の容量には上限がある。恐れが生まれるたびに打ち消そうとか手放そうとか働きかけると、恐れと同じかそれ以上のエネルギーを使う。それだけでキャパオーバーで他のことに心を使えない。恐怖は消せない。そしてまた生まれる。

 

長い間死の恐怖と向き合って導き出した我々なりのやり方は、恐怖が生まれたら恐怖を感じきる。深く魂に刻む。その存在を認める。恐怖はある。あるけれども、それでお前はどうしたいのか自分に問う。怖いけれど、怖くても「こうしたい」「これをやりたい」「生きたい」という肚の奥から湧き上がる叫び。光。希望。これが生命力だ。これが人を生かすのだと思う。こうやって魂は鍛えられ磨かれる。誰かが言っていた。人を死に至らしめる本当の病は絶望なのだ。

 

恐怖のことはだいぶ学んだ。さて悲しみはどうか。これもきっと深く感じきり、深く魂に刻むことが必要なのだろう。大切な人を想うとき悲しいとか苦しいではなく、ただ大切だと感じたい。強くありたい。どんなことがあっても人には這い上がる力がある。それをあの人に見せたい。魂はまた鍛えられ磨かれる。人はどこまでも強くなれる。

 

たくさんの決めるべきことは大いに悩もう。悩んで想像してゆっくり決めよう。優しいあの人のことだ。何を選んでも「いいよ」と笑って許してくれる気がする。

 

 

はじめて夫が入院した時、病床で読んでいたのが「死に至る病」だったことを強烈に覚えている。この状況でこれを選ぶセンスと精神力に驚き尊敬した。当時27歳。もしかすると渾身のブラックユーモアだったのかもしれないが突っ込めなかった。この一ヶ月後、我々は結婚することを決めた。

 

余珀日記20

夫が旅立って3週間が経った。長かったのか短かったのかもうよく分からない。眠れているのか眠れていないのかもよく分からない。

 

毎晩、夢を見る。これならば間に合うのではないか、と必死に夫を救う方法を探している。目覚めるともう探さなくて良いことが分かる。毎日その繰り返し。

 

「仲が良すぎるのも考えものだ。死ぬ時は一人なのだから」。数年前に、母にそう言われた。母の言うことはいつも正しい。

 

付き合って21年。結婚して13年半。7年前に会社を辞めてからはほぼ毎日24時間一緒にいた。離れたのは入院した12日間だけ。その間も毎日面会はできた。付き添いで病院に泊まることを許されて久しぶりに一晩一緒に過ごした翌朝、夫は天へ還った。

 

その夜二人でいろんな話をした。ほとんど私が一方的に話をしたが、夫はずっと聞いていてくれた。たくさんの方が夫にくださったメッセージを二人で読み、動画のメッセージを見て、作ってくださった音楽を聴いた。これだけの方が待っていてくださることに二人で感謝し、二人で泣いた。二人で茶道の教授者を目指して真剣にお稽古すること、余珀で茶道を教えていくこと、金継ぎや和菓子や日本の文化にまつわる教室をやっていくこと、余珀を文化サロンのように運営していくこと、もう一度ニューヨークやセドナコペンハーゲンに行くこと、サンディエゴにも行くこと、やりたいことだけやっていくこと。二人で描いてきた夢を一つひとつ全部話し続けた。翌朝、きれいな朝焼けを見た。朝日が昇るのを二人で見た。部屋に光が差した。最後に一緒に聴いた音楽も全部覚えている。

 

結婚する前年の2008年、夫が初めてこの病をいただいた時から我々は命と向き合って生きてきた。「もしもこれが人生で最後だったら」という判断基準ですべてを選択し、やりたいことからやってきた。夫と出会ってから今まで、幸せなことしか思い出せない。美しい人生だった。最後のその瞬間まで一緒にいられたこと、胸に光と希望を持ち続けられたことに感謝しかない。

 

どんなに体に気をつけて食べものに気をつけても、病気になることもある。ならないこともある。心を変えて人生を見直し生活を変えて、体が治ることもある。治らないこともある。どんなに抗ってもどうにもならないこともある。皆やりたいことをやったらいいし、食べたいものを食べたらいいと思う。すべてのことに良い悪いはない。

 

桜が散る。残る桜も遅かれ早かれみんな散る。一番失いたくないものを失った今、私はもう何も怖くないし、誰も怖くない。

 

風吹かば吹け。雨降らば降れ。今すぐ散ってもかまわない。最後まで生き切った夫に相応しい人間になれるよう、生きられるだけ今を生き切るだけだ。

 

我々がカフェを開くことを予言した三軒茶屋の美容師さんは言っていた。「ご主人は次はお坊さんになるんじゃないか」と。

 

52日は八十八夜。この日が夫の四十九日だ。四十九日を過ぎれば夫は仏さまになる。お坊さんを通り越して仏さまなのだからもう誰も敵わない。私も仏の妻になるのだから、さらなる修行を積まねばなるまい。

 

二人の夢を叶えるために私が余珀を続けていく。みえてもみえなくても、克也さんを感じながら一緒に生きていく。来世で克也さんに胸を張って会えるよう、散るまで咲いて咲いて咲いてやる。

 

世界で一番大好きな克也さん、

たくさんの愛と光と幸せをありがとう。

克也さんと出会ってくださったすべての皆さまに心から感謝申し上げます。

ありがとうございました。

 

余珀日記19

余珀お披露目の日から丸2年経った3月22日、冷たい雨が降るなかお墓参りをした。母方の大叔父夫妻と母の従姉妹が近くのお寺に眠っているのだ。


登戸に余珀の物件を見つけた当初、この街には縁もゆかりもないと思っていた。母が大変お世話になったという叔父さん達が昔近くに住んでいたなんて、美容師さんと物件のオーナーさんとの繋がりをはじめ、やはりこの場所には何らかの導きがあったと感じざるを得ない。どうにか2年お店を回せたのも、知らないところで知らない何かが守ってくれていたのかもしれない。


ご挨拶が遅れたお詫びとご縁への感謝を込めて二つの墓石にそれぞれ手を合わせた。お彼岸とはいえ真冬のような寒さで体はずいぶん冷えたが、お参りをようやく果たせて心は晴れやかだった。


冬あたりから精神的に何だか苦しい状態が続いていた。「余珀とはこうあらねばならない」「余珀であるならばこうするべきだ」と、勝手に自分で自分を縛り付け、自ら大変な状況へ追い込んでいた。人生の紆余曲折を経て2人でたどり着いた帰結が余珀のはずだった。好きで始めた余珀なのになぜこんなに大変なのか。2人で悩んで話して考えた。


たぶん4月頃から少しずつ風向きが変わってきた。遊ぶことを忘れていた。楽しむこと、ゆるむことを忘れていた。やりたかった「哲学とお茶の時間」を久々にリアルで開催した。思いついて「写経とお茶の時間」も始めた。予約なしの気軽なカレーの日もやってみた。


仕込み前の心身をととのえるルーティーンに読経が加わった。先日はある方に正坐について教えていただき、きちんと作った正坐の心地良さと「上虚下実」という状態を体感した。体が変わると心が変わり、心が変わると体が変わる。そのうちに面白いお誘いやお話もいくつかいただき、流れも勢いも変わってきた。大丈夫、陰は極まれば陽に転ずるのだ。


この場所に出会えたこと、守ってくださる全ての人やもの、お客さまに、そしてお茶に改めて感謝。3年目は「余珀で遊ぶ」。好きに楽しく軽やかに遊ぼう。


余珀日記18

昨日行われた社中の初釜で、2022年の抱負を先生に聞かれメンバー全員がその場で発表した。私は「開花」と答えた。


2021年後半のテーマは「自愛」だった。発端は昨年秋のお稽古でのこと。私の練った濃茶を飲んだ先生が「酸っぱい」とおっしゃった。濃茶が酸っぱいとはどういうことか。うまく練れたつもりだっただけに心外だった。


先生曰く、お茶にはその人の全てが出ると。思い返すとその日の私はかなり不機嫌な気持ちで稽古に参加していた。どんなにきれいなお点前でどんなにきれいに練られていたとしても、がらんどうな人間が練ったお茶はがらんどうな味しかしない。禍々しい気が入れば酸っぱくもなる。どんなにタキシードが似合っても、中身のない人間はジェームズ・ボンドにはなれないのだ。お茶のみならず、日々余珀で作っている料理も然り。この出来事にショックを受け、しばらく引きずり、猛省した。


その頃、とある合気道の動画を見た。達人と思われる人物に弟子のような人物が何度も飛びかかっていく。達人はすっとした姿勢をまったく崩すことなく、自らのエネルギーを使うこともなく、相手を受け流していく。相手は自分の出した力がそのまま自分にはね返り、崩れる。達人は言った。「相手を『こうしてやろう』というのではない」「自分が正しくあろうとすれば相手もそうなる」。心に強く響いた。


自らをただ高めること。ととのえること。自らが良くあろうとすれば、お茶も料理も相手もきっとそれに呼応する。自分の軸さえしっかりしていれば、どんなこともぶれずに受け流せる。たとえ稽古に遅刻しそうな出がけのタイミングで誰かが部屋中に掃除機をかけ始めても、腹を立てたりせず受け流せるはずなのだ。


そこから自らをととのえることに注力するようになった。筋トレ、ストレッチ、特に見えない部分のマッサージや保湿。お腹を温め、肌触りの良い靴下を履き、寝る前に塗香を付けて自分に感謝をしながら眠りに入る。これほど「自愛」を実践しているのは人生で初めてかもしれない。


「自愛」というテーマに体を通してアプローチしているのは、それが分かりやすいからだ。昨年夏に体調を崩した後、軽い筋トレを習慣にし始めてからすぐに変化を実感できた。体は素直である。手をかければかけるほどその成果が目で分かる。体感で分かる。「自分を大切にしよう」と頭で考えて思考の習慣を変えようとするよりも、体に働きかけた方が分かりやすいし早い。何より健やかだ。


そんな2021年を経て迎えた2022年。自分を大切にしていった結果、それが自然と外ににじみ出てくると良いと願う。隠れず、縮こまらず、花が開くように。自らが開くような、そんな年にしたい。


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余珀日記17

前回の更新が5月31日。それから5ヵ月も経ってしまった。もはや日記ではない。書こう書こうと思いつつ、記録できずにここまできてしまった。いったい今まで何をしていたのだろう。


夏に体調を崩したのもいけなかった。暑いなか外に出たのが原因か、貧血を起こしてお店を何日か休んでしまった。久々の体調不良で体力が戻るまで時間がかかった。


その反省を踏まえて、仕込みを始める前に、朝、筋トレをするようになった。たった4分だけだが、多少なりとも良い影響を体に与えている気がする。お店を続けるにはまずは体力から。筋トレは今のところ2ヵ月続いており、朝のルーティーンになりつつある。


お店を毎日営業することをアウトプットとするならば、ここ数ヵ月は「余珀研修」と称してインプットする機会も多かった。飲食店に限らずいろいろ出かけてたくさんの刺激をいただいた。


あるお店のある方の声が忘れられない。心地良い口調とトーン。話しかけるその声は優しく温かく、無条件に「許されている」と思えるような安心感があった。顔が隠れていても声だけでこんなに与えることができるのだ。


あのお店で感じた世界観。丁寧にきちんと仕込まれたことが分かるキリッとしたお料理。冷え切った我々にそっと差し出された梅干しと生姜の入ったお番茶。さまざまな場所で得た学びの数々。さて余珀にはどう生かせるのか。


そんなこんなでもう11月。午後になると店内に光が低く長く入る。シルエットになったお客様が影絵のようで美しい。今日もできることをできるだけ。


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余珀日記16

余珀を始めて一年が経った。昨年の3月22日にお披露目としてこの場を開いた。4月15日、テイクアウト営業を始めた。6月2日、イートインを始めた。 「この日が開店日」とはっきり決めることが難しいが、次の6月2日でイートイン含めて丸々一年間このお店を回したことになる。


5年前の春まで我々はそれぞれ別々の会社に勤める会社員だった。結婚して一緒に暮らす前までは、何時まで仕事をしていても割と平気だった。一緒に暮らし始めてからは、始業時間の2時間くらい前に出社して、誰もいないオフィスで仕事を始めるのが習慣になった。できるだけ早く仕事を終わらせて、できるだけ早く家に帰りたかった。一日のなかで二人で過ごす時間が一番楽しかった。


「人はいつ死ぬか分からない」。頭で分かっていても、自分ごととして強く実感するのはなかなか難しい。ある程度の痛みや恐怖とともに、早い段階でそれを思い知らされたのは良い経験だった。ことあるごとに我々は「もしもこれが人生で最後だったら」という想定のもと、いろいろなことを話し決断してきたように思う。


自らを静かに見つめ、向き合う時間。人生で本当に大切なものは何か、考える時間。その時間にいつからかお茶が寄り添うようになった。むしろお茶のおかげで、そういう時間が増えたのかもしれない。そして、二人とも会社を辞めることに決めた。


一日に24時間しかないなかで、一番大切な人と一番長く一緒にいられる生き方をしたい。いつかやってみたい、その「いつか」はひょっとすると来ないかもしれない。やってみたいことをまず先にやろうと思った。


二人とも無職になって、やりたいことをまとめた長いリストを片っ端から叶えていった。時間を気にせず心ゆくまで散歩をした。アメリカを38日間旅した。パリにもロンドンにも行った。面白そうなイベントは全部参加した。やりたいことだけをやる生活を半年くらい続けたら、それで大体気が済んだ。何か役に立つことがしたくなってきた頃、ご縁があり西荻窪のカフェで二人一緒に働くことになった。そして2020年、登戸に余珀を開いた。


今、余珀で働いている時も、休みの時も、ずっと二人で一緒にいる。こうなるといいなぁと思っていた生き方を、たぶんすることができている。楽ではないけれど楽しく一年やってきた。


いらっしゃるお客さまの日常に余白の時間が生まれますように。そこにお茶が寄り添い、より良い時を過ごせますように。余珀で過ごされた方一人ひとりに光が宿りますように。「余珀」という店名に込めた想いは今も変わらない。新しい出会い、懐かしい再会、余珀で紡がれるたくさんのご縁に感謝と感動の一年だった。皆さまのおかげで迎えられた一周年。心からありがとうございました。


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余珀日記15

「お手洗いのお香は何ですか」。お客さまから帰り際に聞かれた。「建長寺の巨福です」と答えた。開店前に焚くお香はお寺で求めたものがほとんどである。旅先でお寺や神社に立ち寄り、お線香をお土産にするのが我々の定番なのだ。


聞くとそのお客さまも、昔はお寺のお香ばかり買っていたという。思わず意気投合し、さらに話を伺うと京都の東寺のお香が一番好きだと教えてくださった。「またお手洗いの香りを嗅ぎにきます」、そう言ってお店を後にされた。


建長寺、報恩寺、高尾山、天河大辨財天社。移りゆく香り、過ぎゆく日々。その後、別のお客さまが所用で京都に出かけることになった。もし時間が許すようであれば東寺でお香を買ってきていただけると嬉しい、そう話すと快諾くださり、次の来店時に届けてくださった。


というわけで、先月からお手洗いのお香は東寺に変わった。甘めで少し重みのある香り。それでいて清々しくも感じるのはお寺というイメージのせいだろうか。


ついでにいうと、開店前と閉店後の朝晩、読経するのが夫の日課だ。我々が会社員時代、いずれ2人でカフェを開くと予言した美容師さんは「ご主人はそのうちどこかのお寺の住職にでもなるんじゃないか」ともおっしゃる。この予言もいつか当たるのだろうか。余珀がだんだんお寺っぽくなっていく、という可能性はあるかもしれない。


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