茶、美、くらし

お茶と食事 余珀 店主。お茶、日本の美、理想のくらしを探求中

寡婦日記⑥

夫がいない世界を5ヶ月生きた。夫は生前、もしも自分が死ぬのだとしたら心残りは文さんだ、と言った。あとは家族、それ以外はどうでもいい、と言った。私もそうだ。夫が生きてさえいてくれれば後はどうでも良かった。どうでもいいことばかりが残った世界で、それでも5ヶ月生きてきた。

 

夫を失ったことに恨みも後悔もない。ただ、仕方がないと思う。そして時々、つまらないと思う。夫がいなくともみんながいる。それなりに楽しいこともある。けれど、みんなは克也さんではないとも思う。どうでもいいと思うたび、どうでもいいことなんて一つもないと言い聞かせる。手を動かす。生活をする。

 

死ぬけれど生きる。別れるけれど出会う。壊れるけれど作る。失うけれど見つける。何のために。うまく答えられない。今まで書いた全部の日記の末尾に「と言い聞かせている」と付け足したい。

 

「人生で起こることはすべて良いことだ」と言い切れるほど私は人間ができていない。自分のことを割とタフで、変化に強くて、根はポジティブだと思っているけれど、日記にわざわざ「強くありたい」と書いてしまうくらいには弱い。格好悪いことこの上ない。

 

人生で起こることはすべて良いことだと言い切ることはまだできないが、「起こることすべてに大きな意味がある」とは思っている。夫を失った意味も、これからどう生きるのかも、自分なりに受け取った。「どうでもいい」と「そうではない」の間で揺れながら、受け取ったものを体現しようとじたばたしている。

 

先日、初盆で兵庫に帰省した。登戸に帰る予定だった日に台風が直撃して動けなくなり、もう一泊することになった。月命日まで義実家にいることになったのは夫の差し金だったのかもしれない。台風が抜けた後、特急も新幹線もダイヤは大幅に乱れていたが、その割にはスムーズに帰ることができた。

 

車窓から濁って荒れた川を何度も見た。どっちの向きに流れているのか分からないほどの水量と勢いで暴れる川を見て、私もあれくらい流した方が良いと思った。「どうでもいい」も「そうではない」も思うそばから流していけ。濁ったままでもとにかく流せ。きれいも汚いも淀む前に全部どんどん流してしまえ。エネルギーを燻らせるな。エネルギーは燃やすためにある。エネルギーは喜びのために燃やすべきである。