茶、美、くらし

お茶と食事 余珀 店主。お茶、日本の美、理想のくらしを探求中

マット

「こんにちはー。マットの交換に来ました」。明るい声が響く。「お願いします」と声だけかけて、急いで仕込みに戻る。開店前の一番忙しい時間に、いつも作業員はやって来る。いつも、だ。「今か」と舌打ちしたくなるが、仕方ない。店が始まると、作業はできないのだから。入口のマットは、業者の方が定期的に交換してくれる。



ぴかぴかのマット。ありがたい。これで胸をはってお客さまをお迎えできる。作業完了のサインをすると、その人は出て行った。「またお願いします」と、爽やかな笑顔を残して。扉の下でマットが「ようこそ」と誇らしげな顔をしていた。



一度だけ、警察のお世話になったことがある。高校1年生の夏。理由は深夜徘徊。



6月の県大会を最後に3年生が引退した。新生剣道部は、秋の新人戦に向けて気合が入っていた。夏は学校に泊まり込んで合宿をすることになった。

朝食の後に稽古。昼食の後も稽古。夜は校内の施設に雑魚寝。顧問の先生以外に、厳しい掛かり稽古で知られるコーチも指導に加わった。毎日道場を駆けずりまわり、ヘロヘロになるまで竹刀を振った。



迎えた最終日。すべての稽古を終え、部全体が浮き立っていた。夜、宿泊部屋で誰かが提案した。「肝試しに行こう」。行き先は近くの池。春は桜が舞い、冬は白鳥が舞う。夏の闇に舞うのは何だろう。全員喜んで出発した。

肝試しといっても、数人のグループに分かれて、暗い池を一周するだけだ。もちろんお化けなど出ない。稽古が終わった解放感。合宿を乗り切った達成感。みんなただそれに浸りたかったのだ。



「何をしている」。最後のグループが周り終わったとき、声をかけられた。2人組の警官だった。さっと緊張が走る。「どこの高校だ」。「S高校です」と主将がとっさに嘘をついた。すぐそばに「I高校」というステッカーの貼られた自転車が人数分並んでいるのに。警官は続けて名前と住所を尋ねた。あれ。主将は全然違う名前を答えた。住所もでたらめだ。次に問われた部員も、主将にならって偽名を口にした。だんだんと迫る順番。どうしよう。次は女子の番だ。女子主将が住所を答え始めた。「M園町〇丁目△番地・・・」。終わった。M園という地域に「町」はつかない。M園に住んでいるから分かる。おそらく途中から嘘に気づいていたであろう警官は、さすがにそこで問答を中断し、部員全員を近くの交番に連行した。



交番は引き戸だった。下に玄関マットが敷かれている。たわしのような材質。中央に大きく目立つアルファベット。「WELCOME」。そう書かれていた。激昂した警官に連れられて入室する部員たち。「WELCOME」と陽気に迎えるマット。そのギャップ。正座させられ、説教されている間、どうしてもそれが頭をよぎる。いけないと思うほど笑いたくなる。必死に神妙な顔をした。悪いことに、2人の警官のうち若い方がS高校の出身だった。私たちはひどい嘘をついてしまった。「お前ら、それでも剣道部か」。長時間の正座で足がしびれ始めた部員たちを、警官はそう怒鳴った。女子は全員泣いた。マットの余韻を引きずりながらも、「泣かなければならない」と思うと私も泣けた。何度も何度も謝り、どうにか説教は終わった。



次の日、顧問の先生に激しく叱られた。ここでも涙を流して謝った。出場停止になるかと思った新人戦は、何とか参戦を許された。あれだけこっぴどく怒られ、何度も泣きながら反省したのに、時間が経つと補導も思い出に変わった。部内でチーム戦をすると「M園町ズ」なるチームができ、女子主将と本当のM園住民である私とS先輩がメンバーになった。あほだ。が、あれ以来、全員がより真剣に稽古するようになった。



玄関マットを見ると、ついあの「WELCOME」を思い出す。嘘つきでも、どんな人でも、「ようこそ」と迎え入れたあのマット。当然か。扉は開かれるためにあるのだから。

さて、開店時間だ。今日はどんなお客さまがいらっしゃるだろう。あの人に負けない笑顔で迎えよう。嘘ではない、心からのBIG WELCOMEで。


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