茶、美、くらし

夫婦でお茶、日本の美、理想のくらしを探求中

ある日のカフェ日記

「この音楽は何ですか?」
しゃがんで玉ねぎに手を伸ばしたタイミングで声をかけられた。
ゆるふわではない、くっきりと意思を持ったウエーブの髪。深紅に染まった唇。デニム地のゆったりとしたジャケットの背中には、曼荼羅のような刺繍が施されている。彼女なら何でも着こなせそうだ。たとえそれが、ビストロのテーブルクロスのような赤いギンガムチェックのワンピースであっても。
玉ねぎをつかんで立ち上がり、「キース・ジャレットです」とだけ答えた。それ以上のことは知らないのだ。彼女は納得したように微笑んだ。静かな心を打つ微笑みだった。彼女とキース・ジャレットはとてもしっくりくるように感じた。あの曼荼羅を編む糸の一つに、きっとそれが含まれていたのだ。着席前に付けていたヘッドフォンは、彼女の耳から外されていた。

 

何かの持つ雰囲気と音楽がぴたりと合うことがある。

数年前の11月22日に、私は明治記念館で披露宴を行った。誰も信じてくれないが、意図せずその日に結婚式を挙げることになったのだ。田植えやら議会やらそれぞれの両親の都合を考えるとその日が最適だった。それだけだ。
11月22日の明治記念館を知っているか。全部の部屋で、全部の時間で、次から次に結婚式が行われている。披露宴は予定通り始まった。途中、お色直しがある。父に手を引かれ退席し、両親と写真を撮り、着替えのための部屋に移動する。部屋はブースに分かれ、着付け、ヘアメイクができるようになっている。もちろんここも満室だ。
そこにはマイケル・ジャクソンの「Beat It」が大音量でかかっていた。「Beat It」とともに色打掛を脱がされ、「Beat It」とともにドレスを着させられ、「Beat It」とともに髪型が変わり、「Beat It」とともにメイクが変わる。それも、ありえないスピードと、これ以上ない正確さで。すべてのブースで花嫁がそれぞれに仕上がっていく。これは「やっつけ」仕事か。いや、「Beat It」はそうは訳さないらしい。とにかく、これが音楽の力だ。前に進ませる力、完遂させる力、リズム、グルーヴ、エネルギー。その場の大きなうねりと混然一体となって、私の花嫁姿は完成した。
その後、予定通り両親への手紙を読み、予定外に泣き、予定通り宴は終わった。どんな手紙を書いたか忘れたが、あの「Beat It」は忘れられない。

 

キース・ジャレットは玉ねぎのみじん切りをするのにも適していた。この曲にもある種の前に進ませる力がある。これから山のように積まれた玉ねぎを全てみじん切りにするのだ。カフェのメニューの中で、一番手間がかかるのがカレーだ。今日は最初から仕込みをするつもりだった。カレーの仕込みのためには、まず決意と覚悟を仕込む必要がある。私なりのスピードと、私なりの正確さで、まずはみじん切りから。予定通り涙が出る。

 

彼女は食後のデザートまで楽しんで、帰っていった。店内の音楽は昨日、キース・ジャレットに変えたばかりだった。音楽が彼女を呼んだのかもしれない。私は切り終えた玉ねぎを炒め始めた。いつも通り美味しいカレーができそうだった。

 

2018年5月4日

 

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