茶、美、くらし

お茶と食事 余珀 店主。お茶、日本の美、理想のくらしを探求中

寡婦日記⑧

初日の出を見た。刻々と変わる空。一際輝く光。徐々に育つ太陽の兆し。富士山の頭もくっきり見えた。新年に相応しい清々しい空だった。

 

2023年を漢字一文字で表すならば「喪」という字が良いだろう。夫も、強いと思っていた自分も、先日祖母も喪った。

 

人に励まされるのは嫌いだった。励まされるのは弱い人間で、自分は励ます側の人間だと思っていた。誰かに心配されると「大丈夫だ」と言い、「元気だ」と笑い、涙が出そうな時は腿をつねって誤魔化した。体じゅうの気合いを集めて喪主もちゃんとやり遂げた。そんな自分を偉いとすら思っていた。

 

「悲しいのは暇だからだ」。少し弱さを見せた相手にそう言われた。自分を高めるために時間を充実させればそんな気持ちにはならない、と。弱っている時に正論の励ましはつらい。弱っている時に欲しいのは共感と慰めだ。励まされて分かった。私は正論を受け止められないほど弱かった。

 

毎日いろいろなことが起こる。「やってやるよ」と奮起して、また打ちのめされて、また「やってやるよ」と立ち上がる。一度は余珀の継続も諦めた。しかし太陽は昇った。今はまた「やってやるよ」のターンである。

 

寡婦」と名乗るのももう終わり。悲しみを理由にさぼるのももう終わり。自分だけが大変な顔をするのももう辞める。私だけが特別なわけではない。何もない人なんていないのだ、

 

弱いまま生きろ。弱さを許せ。人様に迷惑をかけないとか、土台無理な話なのだ。老いか病かいずれにせよ人はやがて弱る。そもそも生まれた時は何もできない赤ちゃんだった。何もできなくとも生まれただけで祝福されたのだ。

 

2024年。少しずつ私は私を取り戻す。忘れていたことを思い出す。新しい喜びを感じる。大切なものを見つける。克也さんを知らない誰かと出会う。いずれ失う。いずれ壊れる。それでも出会った全てが私になっていく。私は私と添い遂げる。

 

寡婦日記⑦

研究科を終えた。毎日いろいろなことが起こる。大変な時こそ学びや気づきは大きい。そして大変な時はずっとは続かない。自然を見ていればわかる。必ず朝は来る。

 

料理教室に通った一年は嵐のようだった。夫を亡くした。死にたいと思うレベルの悲しみをはじめて味わった。夫婦で始めたお店を一人で営むことになった。いろいろなものが壊れた。破壊と再生の一年。いまだ再生の途中である。

 

「何もない人なんていない」。米澤先生はよくそうおっしゃる。私だけが特別なわけではない。いつも笑顔のあの人もきっと何かを抱えて生きている。抱えた分だけ人は強く優しくなれる。先生方や仲間の姿にそんなことを思う。

 

どんなことがあっても「私は大丈夫」と決める。何かに悩んでも「やる」と決める。あとは前に進むだけ。あな健に通って人生を解釈する力を高めることができた。失えるだけ失ったが経験と知識が結びついて得られた確信は誰にも奪えない。人には這い上がる力がある。私は私を信じている。

 

できるのではないかと思ったことをいくつ「できる」に変えられるか。可能性を可能に変えていくことが生きる証だ。いただいた学びと喜びを胸に挑戦を続けたい。

 

※通っている料理教室に提出した感想文。心の記録として転載する。

 

寡婦日記⑥

夫がいない世界を5ヶ月生きた。夫は生前、もしも自分が死ぬのだとしたら心残りは文さんだ、と言った。あとは家族、それ以外はどうでもいい、と言った。私もそうだ。夫が生きてさえいてくれれば後はどうでも良かった。どうでもいいことばかりが残った世界で、それでも5ヶ月生きてきた。

 

夫を失ったことに恨みも後悔もない。ただ、仕方がないと思う。そして時々、つまらないと思う。夫がいなくともみんながいる。それなりに楽しいこともある。けれど、みんなは克也さんではないとも思う。どうでもいいと思うたび、どうでもいいことなんて一つもないと言い聞かせる。手を動かす。生活をする。

 

死ぬけれど生きる。別れるけれど出会う。壊れるけれど作る。失うけれど見つける。何のために。うまく答えられない。今まで書いた全部の日記の末尾に「と言い聞かせている」と付け足したい。

 

「人生で起こることはすべて良いことだ」と言い切れるほど私は人間ができていない。自分のことを割とタフで、変化に強くて、根はポジティブだと思っているけれど、日記にわざわざ「強くありたい」と書いてしまうくらいには弱い。格好悪いことこの上ない。

 

人生で起こることはすべて良いことだと言い切ることはまだできないが、「起こることすべてに大きな意味がある」とは思っている。夫を失った意味も、これからどう生きるのかも、自分なりに受け取った。「どうでもいい」と「そうではない」の間で揺れながら、受け取ったものを体現しようとじたばたしている。

 

先日、初盆で兵庫に帰省した。登戸に帰る予定だった日に台風が直撃して動けなくなり、もう一泊することになった。月命日まで義実家にいることになったのは夫の差し金だったのかもしれない。台風が抜けた後、特急も新幹線もダイヤは大幅に乱れていたが、その割にはスムーズに帰ることができた。

 

車窓から濁って荒れた川を何度も見た。どっちの向きに流れているのか分からないほどの水量と勢いで暴れる川を見て、私もあれくらい流した方が良いと思った。「どうでもいい」も「そうではない」も思うそばから流していけ。濁ったままでもとにかく流せ。きれいも汚いも淀む前に全部どんどん流してしまえ。エネルギーを燻らせるな。エネルギーは燃やすためにある。エネルギーは喜びのために燃やすべきである。

 

寡婦日記⑤

上級の受講中に夫を亡くした。皆勤だった料理教室を一ヶ月休んだ。葬儀や事務手続きが落ち着くまでの間、ずっと義母が一緒にいてくれた。

 

連絡やら申請やらで、私がスマホにかかりきりの最中、義母がご飯を三食作ってくれた。

 

悲しみに沈む義母に米澤先生の料理の本を手渡した。他にも図書館で料理の本を色々借りてきて、二人で読んだ。どんなに悲しくても料理の本は読めた。いたずらに心を乱さず、余計な感情を引き起こさず、穏やかに過ごせた。

 

連絡と作業の嵐を抜けた頃、久しぶりに台所に立った。自然食でも何でもない普通のオムライスを作った。フライパンを振ったら気持ちが上向いた。手を動かして何かができるということが単純に楽しかった。楽しいとか、嬉しいとか、面白いとか感じるのは随分久しぶりのことだった。

 

「どんなことがあっても人には這い上がる力がある」。米澤先生の言葉の意味を、心の底から深く感じている。その通りだと確信している。

 

人生にはどうにもできないこともあるけれど、それでも人は這い上がり、明るく強く生きていける。

 

夫をしっかり見送れた、夫と過ごした日々は本物だったという確かな手応えが、私の中にどっしりとある。大変な時に支えてくれた料理教室の仲間たち。そういう人間に私もなりたい。

 

次は研究科。学び続け、この命を全力で生き切りたい。

 

 

※通っている料理教室に提出した感想文。時系列は前後するが心の記録として転載する。料理にかぎらず「手を動かす」ということは健やかなことだ。

 

 

寡婦日記④

先日、納骨をした。法要の後お墓に向かい、お墓でもお経をあげた。義父と義弟が力を合わせて墓石を動かした。義祖父のものか義祖母のものか、石と石の隙間から分解されずに残った骨が見えた。骨の近くに紙のようなものが見えた。朽ち果てる前のその紙には文字が一つ書いてあった。

 

それは「文」という字だった。文字の大きさは3センチか4センチ四方くらいだろうか。朽ちて小さくなった紙に対してだいぶ大きく一文字だけ「文」とはっきり書かれていた。何だこれは。考える間もなく夫を「文」の近くにそっと横たえ、義父たちは墓石を元に戻した。

 

「お経本か何かありがたい紙だったのではないか」。義父母に聞いてもあの紙の正体ははっきり分からなかった。あんなに分解されて小さくなった紙になぜあの一文字だけが残ったのか。よりによってなぜ「文」なのか。考えても分からない。

 

意外と私も早くあそこに入るのかもしれない。「文」がお墓に納まっているのを見てそんな考えがふと浮かんだ。それはそれで仕方がない。私にはもう失うものなどない。前より死も怖くない気もする。たぶんその時が来たら夫が迎えに来てくれる。そんな変な自信もある。

 

一方で、夫とともに私も一度死んだのだとも思う。夫とともに生き、夫のために生き、夫が好きに生きられるよう身を捧げ、それが生きる喜びであり、それが生きる全てだった私は、夫とともに死に、一緒にお墓に入ったのだろう。

 

新しく生まれ変わった私は以前とどれだけ違うだろうか。夫に頼りっぱなしだった私からどれだけ成長できただろうか。時を経て訓練を重ねて心も考え方も日々少しずつ変わっている。それでも今はまだ夫に迎えに来てもらうわけにはいかないと思う。新しい私は私のために生きるのだ。

 

今、自分を壮大な織物のように感じる。ご先祖さま、両親、妹弟、友人たち、岩手山や中津川、「すきとほつたほんたうのたべもの」、育った街や時代やあの日すれ違った名前も知らない人たちさえも、縦の糸になり、横の糸になり、全部私の命として編まれている。人生の半分をともに過ごした夫の糸はだいぶ広く深く私に編み込まれているはずだ。

 

最近、生命体としての義務について気づく機会があった。生命が38億年続いてきたのは「より良く変わり続けること」ができたから。自分の可能性を追求することは生命としての義務であり生きる証なのだ。

 

もっとたくさん糸を見つけよう。心震える糸に出会おう。好きな色に染めたっていい。今までやらなかった模様にも挑戦しよう。より豊かにより鮮やかに。もっと大きくもっと美しく。私の命を色とりどりに織り上げて次の世代へプレゼントしよう。

 

寡婦日記③

「結婚指輪をしないのか」と友人に聞かれた。「きっと守ってくれるからつけたら良いのではないか」と。言われてみると葬儀につけて以来、指輪をすることはなかった。

 

思いつかなかったという方が正確かもしれない。いろいろな手続きで「世帯主」に丸をつけ「配偶者なし」に丸をつけ「同居する家族なし」の欄に丸をつけてきた。寡婦年金の受給資格もある。夫はいなくて自分は一人だと何度も思い知らされてきた。

 

そもそも我々は結婚指輪を常日頃つけていなかった。会社員時代は毎日していたけれど、仕事が飲食に変わってからはしなくなった。休みの日もお茶のお稽古ではつけられないし、どこか出かける日もギャラリーやお店で器を見たり触る可能性があればしなかった。秋冬になると手荒れのせいで私の指は腫れて太くなり指輪は入らなくなった。

 

季節や外出の目的など諸条件をクリアして指輪をつけられる日は夫がつけてくれた。「文さん、結婚してください」と夫が私の左手をとる。「はい、よろしくお願いします」と答えると薬指にはめてくれる。その後、私が夫に同じことをして「はい、結婚した」と二人で言ってくすくす笑い合う。指輪をする日のお決まりの遊び。思い出した。自分で指輪をつけるという習慣自体が私にはなかった。

 

ずいぶんたくさんの幸せをもらってきたものだ。感謝も愛情も深く大きく惜しみなく与える人だった。一緒に過ごした時間が、受け取ったたくさんの幸せが、たしかな手応えとして胸の中に残っている。何だかもらってばかりだったようにも思う。

 

夫を亡くしてからもそうだ。訃報を知った方々から数えきれないメッセージをいただいた。葬儀でもたくさんの方から直接声をかけていただいた。「何かあったら頼ってほしい」。「落ち着いたらゆっくり話そう」。「応援してる」。7〜8年前に一度お会いしただけにもかかわらず、私を気にかけお茶をしようと外に連れ出してくださった方もいた。

 

誰かに大変なことが起きた時、かける言葉が見つからないのなら何も言わない方がましだと思っていた。今はそう思わない。どんな言葉であっても想いは伝わる。想いは届く。受け取った当人はその時はうまく返せなくとも胸にずっと温かな気持ちが残る。もしも今、誰かが悲しく苦しい状況にあるのなら躊躇なく声をかけられる人間でありたい。夫のように、私の周りの方々のように、愛情や温かな気持ちを惜しみなく差し出し、与えられる人間でありたい。

 

夫と出会えたこと、たくさんの優しい方々に出会えたことに感謝しかない。私はずいぶん幸せな人間だ。今までも。これからも。

 

寡婦日記②

久しぶりに音楽を聴いた。聴きたいと思って曲を選んで純粋に音を楽しんだのは何ヶ月ぶりだろう。グールドのゴルトベルグ変奏曲。夫が好きな曲だった。

 

音楽の力は強い。そのつもりがなくても記憶や感情が引き起こされる。夫と入院先で一緒に聴いた曲をその2週間後に一人で聴いた。苦しくて息が止まるかと思った。以来、基本的に無音で過ごしてきた。余珀のイベントで音楽が必要な場合はなるべく心に余計な波風を立てない曲を選んだ。

 

5月に清水寺で「音にラベルを付けない」ことを学んだ。雨の舞台であの曲を穏やかに聴いた。もう苦しくなかった。音だけではなく、すべてのものに「悲しみのラベルを付けない」こと。ありのまま観ること。日々の訓練でいろいろなことが平気になってきた。

 

葬儀から一ヵ月ほど経った頃、母と近くのお寺にお墓参りに行った。昨年夫とお参りした母方の親族のお墓。手を合わせた後、周りの墓石をぐるりと見渡した。私と同じ悲しみを感じた人々がこれだけの数いるということに圧倒された。何代も何代も積み重なったとてつもない量の愛別離苦が視覚化されたようだった。昔々から人々は失い、悲しみ、それでも生きてきたのだ。

 

失うという経験をいただいた意味を考える。その経験をいただいた自分はどう生きるべきか考える。昨年は咲かなかった庭のアガパンサスの蕾が伸びてきた。だめになったように見えても止まっているように見えても、命はつながり続いている。世界は可能性は満ちている。失ったもの。残ったもの。私は私を生き切ろう。